妄説 納豆の歴史

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「妄説」の所以

 納豆は日本独特の食品といっていいでしょう。世界にはインドネシアのテンペのような納豆に似た食品はありますが、日本の納豆とは違っています。では、納豆はいつから食べられるようになったのでしょう。世の中には熱心な方がいるもので、納豆の歴史もいろいろ調べられています。しかし、食品の歴史は資料に残りにくいとみえ、確実なことはよく分からないようです。そこで、これまでに明らかとなっている納豆の歴史をもとに、納豆の歴史を再構成してみました。
 筆者は、これまでの納豆に関する歴史叙述を否定し、新説を提起しようとする意図でこの論稿を書いたのではありません。「想い」が伝説を生み出してきたように、歴史叙述もまたそれぞれの「想い」を反映するものです。人それぞれにそれぞれの「歴史」があっていいと考えます。本稿もまた、筆者の個人的な「想い」を反映したものに過ぎません。だから、「妄説」なのです。納豆はこの国の民衆が生活の中から生み出し、育ててきた食品です。納豆は単に過去の遺産として伝承されるべき物ではなく、納豆の歴史がそうであったように発展的に継承されるべき物だとの「想い」を持っています。この「想い」からいちぜん会の製品が作られ、納豆の歴史が叙述されます。「想い」は歴史の中に埋没してしまうことも少なくありません。しかし、人々の暮らしを発展させてきたのが「想い」であったことも事実です。本稿は「妄説」であり、いちぜん会の製品は「妄品」であるかも知れません。「妄説」「妄品」には、「妄説」「妄品」で終わってしまうものもあります。でも、「妄説」「妄品」の中から世に受け入れられるものが出てきます。「妄説」「妄品」であることは、誇りに思っていいことだと考えます。その「想い」が的はずれであるか否かは、歴史が審判してくれることです。
 本来、参考文献を逐一示すべきですが、省略しました。あくまで、「妄説」として読み流してくださるようお願いします。

(注)これまでの糸引き納豆起源説は、1.米作の始まった弥生時代に自然発生した、2.源義家・聖徳太子・加藤清正ら歴史上の著名人が発見した、の2説に大別されます。また、納豆の語源については、寺院の納所豆が訛ったとする説がほぼ定説となっています。
 弥生時代自然発生説は裏付けがないこと、他の稲作文化圏に納豆食品がないことなどから、信憑性が乏しいと思われます。著名人発見説の中では源義家説が有力です。源義家説のネックは、1051年の文献にすでに納豆の文字が見られることです。この問題については、義家以前の納豆は糸引納豆ではなく塩納豆であったと説明されています。つまり、これまでの研究をまとめると、以下のようになります。
1.寺院で「納豆」の名を持つ食品「塩納豆」が奈良時代から平安時代にかけて作られていた。
2.後に糸引き納豆が考案された(特に源義家)。
3.1051年(糸引納豆考案前)の文献にみえる「納豆」は塩納豆である。
 筆者も、1051年の文献にみえる「納豆」が塩納豆であると考えます。この点についての結論は、従来の研究と同じです。ただ筆者は、源義家による糸引き納豆発見以前の文献であるから塩納豆であるとする考えには、同意できません。1051年の文献について考証し、これが紛れもなく塩納豆であることを示します。しかも、それが単に塩納豆を指すだけでなく、「塩辛納豆」という名称で呼ばれていることに注目し、糸引納豆の起源を論じます。
 

2つの「納豆」

 現在では、納豆といえば納豆菌で発酵させた糸引き納豆を指します。でも、もともと納豆には2種類ありました。一つは、麹菌で発酵させた納豆です(以下、麹菌納豆とする)。唐納豆、塩納豆、寺納豆などと呼ばれる納豆で、今も作られている大徳寺納豆や浜納豆はこの系統に属します。二つ目は、納豆菌で発酵させた納豆です(以下、糸引き納豆とする)。現在、納豆といえばこちらを指します。
 納豆と呼ばれる食品に二つの種類があるわけで、このことが納豆の歴史を分かりにくくさせているように感じます。

写真は、京都唐納豆の紫竹庵さんの提供。
鼓(シ)の伝来とその呼称

  中国では「鼓」(シ)という食品が食べられていました。この鼓こそ、麹菌納豆です。鼓の伝来時期は明らかでありませんが、本格的に作られるようになったのは、奈良時代のことではないかと考えられます。鼓の製造には大量の塩が必要です。貴重品であった塩が流通しはじめるのと同じころに、鼓の製造が始まったのではないかと考えられます。
 平城京から出土された木簡には「鼓」の字が見られるそうです。中国の呼称がそのまま使われているのも、伝来間もないことを示唆しているように思えます。
 ところが、興味深いことにやがて「鼓」の呼称は使われなくなります。鼓は食品として一般に普及することはなかったようです。

(注)中国で豆鼓(トーチー)は味噌の一種で調味料。乾燥させると塩納豆になります。豆鼓とは別に無塩の淡鼓がありました。大豆一石六斗六升七合と海草四斤八両で醤鼓一石ができるとの延喜式の記述は、醤油の原型について記しているように思えます。なお、海草は藻塩のこと。
 

納豆と名前を変えた鼓(シ)

 いったん消えたかにみえた鼓は、平安時代の終わりに納豆という名前で再び登場します。1050年頃に成立した『新猿楽記』に「納豆」の記述が見られます。これが文献に現れる「納豆」の初出です。『新猿楽記』の「納豆」が麹菌納豆なのか、糸引納豆なのかについては、両説あるようです。
 『新猿楽記』を素直に読むと、これを糸引納豆と考える根拠は乏しく、麹菌納豆と解するのが妥当であるように思えます。『新猿楽記』は、あるグルメ女性について、「鶉目(うずらめ)の飯、蟇目(ひきめ)の粥、鯖の粉切、鰯の酢煎、鯛の中骨、鯉の丸焼き」が好物であるとし、続けて「精進の物には、腐水葱(したしぎ)、香疾大根(かばやきだいこん)、春塩辛(つましおから)納豆」と記述しています。「好物」としてあげられているのは、魚や肉の動物性蛋白。それに対して、「精進の物」は植物性の食品なのでしょう。それにしても、腐水葱(したしぎ)以下、聞き慣れない物が並んでいます。もともとの『新猿楽記』には読み仮名もなければ、句読点もなかったはずです。腐水葱(したしぎ)という物を知っている校訂者が句読点を付けたのだろうと思いつつ、妄説納豆の歴史の本領を発揮することにします。『新猿楽記』の件の部分は、「精進の物には、腐水(ふすい)、葱香疾(ねぎかばやき)、大根春(だいこんす)塩辛納豆(しおからなっとう)」と読むことができます。腐水は水豆腐のこと、葱香疾はネギの味噌焼きかなにか、大根春はなます。塩辛納豆は麹菌納豆のこと。素人目には、このように読んだ方がよほど自然に思えます。「春塩辛(つましおから)」という食べ物があるのかどうか知りませんが、植物食品の塩辛というのはなさそうな気がします。なお、塩辛が動物性食品だとすると、「塩辛、納豆」と分けて読むことはできません。

(注)変体仮名で「春」は「す」。「だいこんす」は大根酢のこと。
 

怪しい「納所豆」語源説

 筆者は、文献上最も古い納豆の記述は『新猿楽記』の「塩辛納豆」であり、たんに「納豆」でなく「塩辛納豆」とされたことは糸引納豆がすでに存在していたことを示唆していると考えます。ついでに300年来信じられてきた納豆の語源にも疑義を提起します。1695年に刊行された『本朝食鑑』は、納豆が寺の納所(なんじょ、なしょ)で作られていたので「納所豆」とよばれ、そこから納豆に変わったと説明しています。この説は現代に至るまで紹介され続けています。実は江戸時代には言葉遊びの文化が盛んで、こじつけ語源論が流行します。「納所豆」語源説もその一つでしょう。
 「納所」語源説には、怪しい点がたくさんあります。寺にも「納所」はありましたが、平安時代「納所」は一種の役所で「のうそ」などと呼ばれました。「のうそとう」がなまって「なっとう」になったとは考えにくいでしょう。一歩譲って、「なんじょとう」「なしょとう」などと呼ばれることがあったとしても、それがなまって「なっとう」になるか疑問です。
 そもそも、納豆が寺のある場所で作られたり保管されたりしたとして、それを「台所豆」とか「物置豆」と呼ぶでしょうか?台所では納豆ばかりを作ったわけでもないし、物置には納豆しか入れなかったこともないでしょう。「納所豆」といういい方があったかどうかが、疑われなくてはならないことでしょう。
 江戸の言葉遊び語源論は、「納所豆」の用例があったことを示さずに、想像で結論を導く悪い癖がありました。

(注)原敏夫『納豆は地球を救う』は、「納所豆」以外の語源説も紹介しています。「納所で作られた豆を桶や壷に納めて貯蔵したため、納めた豆すなわち納豆と呼んだ。」「神棚に供えた煮豆にしめ縄が触れ、藁に住み着く納豆菌が繁殖し納豆化した。美味しい食べ物を授けてくれた神様に、納めた豆という意味を込めて、納豆と呼ぶようになった。」「大豆は栄養のかたまりで、栄養の納まった豆なので納豆という説。」などがあるようです。
(注)納所豆語源説は、『世界大百科事典』にも「動物性タンパク質を食べることができなかった僧が、タンパク質の豊富な大豆を,おいしく、消化よく食べるために研究をした所産が納豆であり、僧房の納所(なつしょ)でつくられ普及したものであるから,その場所名を冠して広義の納豆という語が生まれた。」と紹介されています。
 

「納豆」は当て字?

  これまで「納所豆」語源説が支持され続けてきたのは、代案を示すことができなかったからです。いよいよ筆者の代案を示します。筆者は、平安中期から後期にかけての時期に、京都かその近辺で糸引納豆が考案されたと考えます。新しく考案されたこの食品は、「なっとう」と呼ばれたかも知れませんし、「なとう」「にとう」「ぬと」のような発音だったかも知れません。言葉が先にでき、後で発音に近い漢字が当てはめられました。このようなことは、珍しいことではありません。「やまと」という地名が先にあり、後で山門や大和が当てはめられたのと同じことです。
 後で考案された「なっとう」が普及していくにつれ、前に伝来していた鼓(シ)の呼び名も変わっていきます。『新猿楽記』が「塩辛納豆」と表現していることに注目しましょう。わざわざ「塩辛」を付けているのは、「納豆」つまり糸引納豆と区別する必要があったからです。『新猿楽記』以後も、麹菌納豆は「唐納豆」「塩納豆」「寺納豆」など、普通の「納豆」でないことを示す表現が続きます。つまり、鼓(シ)は納豆もどきと考えられるようになったのです。

(注)植物や魚の名前には地域的な呼び名が残っています。大豆についても、アゼマメ、アダマメ、サヤマメ、ジンダマメ、ナツマメなどの呼び名が残っています。中国でも大豆を夏豆と呼ぶ地方があります。大豆を夏豆(なつとう)と呼んでいた地域で「なっとう」が考案され、それが「なっとう」の語源になった可能性もあるように思います。もっとも、それは可能性の問題に過ぎません。「納所豆」も「夏豆」も単なる推測に過ぎないのです。
 

糸引き納豆考案の背景

 筆者は遅くとも『新猿楽記』成立の1051年には、糸引納豆と麹菌納豆の両方があり、両者を区別するために「塩辛納豆」という表現が用いられたと考えます。それでは、糸引納豆が考案されたのはいつ頃なのでしょうか。それは1051年よりそれほど遡らない時期だと考えます。その理由は後で触れることにします。ここではまず、糸引き納豆考案の背景を考察します。
 大豆と稲藁があれば納豆はできる、だから弥生時代から納豆はあったのではないかという推測があります。その可能性も全くないわけではありませんが、筆者は否定的です。鼓(シ)が伝来した奈良時代に糸引納豆のような食品がなかったから、そのまま鼓(シ)という言葉が使われたと考えることもできます。また、糸引き納豆がなかったから、平安後期に至るまで文献に出てこないとも考えられます。
 話を糸引き納豆考案の背景に戻します。まず、稲藁から。稲刈りをし脱穀すると稲藁が残ります。こう書くと簡単そうですが、実は稲刈りというのは大変な作業です。弥生時代の米作りでは、籾を石包丁で摘み取っていました。稲を刈る鉄製の鎌がなかった、湿田で稲刈りの作業ができなかった、品種が混合していて稲の実る時期がバラバラだったなどがその理由です。つまり、弥生時代には「産業廃棄物」としての稲藁はなかったのです。稲刈りをする米作は鉄製農具(鎌)の普及する先進地域から広がっていきます。鉄製農具の普及には長い年月がかかりました。生活の中に稲藁のあること、これが糸引納豆考案の一つの条件です。
 もっと難しい条件があります。煮豆です。圧力鍋があれば簡単に大豆の煮豆が作れます。ところが、普通の鍋で煮豆を作ろうとすると、数時間を要します。豆を煮るというのは、意外に大変な作業なのです。鉄鍋のなかった時代に煮豆を作るのはもっと大変だったに違いありません。「煮る」のが大変だったので、蒸すことが盛んに行われました。お米を蒸して食べる強飯(こわいい)から現在のような煮て食べる粥に変わっていくのは、平安時代になってかなり後のことです。蒸したり煮たりするのに対して、煎るのはずっと簡単でした。お米を煎って食べる焼米は弥生時代はもとより、ずっと後まで続きます。鉄鍋・鉄釜の普及は、徐々に煎る食文化に加え煮炊きする食文化を生み出します。煮炊きする食文化が庶民に広がっていったとき、納豆が考案されたのではないでしょうか。

参考サイトお米データベース
 

義家伝説の読み方

  東北各地には、奥州に出兵した源義家が納豆を発見したという伝説が伝えられています。源義家(1039〜1106)が東北地方に出兵したのは、前九年の役 (1056-1063)以後、数回に及びます。義家が納豆を発見したとの伝説は、東北地方出兵の歴史的事実とは符合します。
 まず、伝説の内容を見てみましょう。各地の伝承内容は偶然の発見という点で一致しています。たまたま食べ残しの納豆が発酵して納豆になっているのを見つけた。これはもっともシンプルな伝承です。手が込んでくると、大豆を煮ている途中に突然襲撃され、煮豆を米俵に詰めたところ、後日納豆になっていた、となります。もっと手が込むと、煮豆が馬の体温で発酵したとなります。
 しかし、筆者は義家が納豆を発見したとは考えません。『新猿楽記』の作者藤原明衡と源義家のどちらも、11世紀中頃の京都で生活しています。義家も糸引納豆のことを知っていたと考える方が自然です。義家が東北地方で納豆を発見したのではなく、義家は東北地方に納豆を伝える役割を果たしたのだと考えます。納豆を知らなかった東北地方各地の人々は、義家に教えられて納豆という食品を発見したのです。同曲異巧(?)の伝承が各地に残っているのは、各地の人々が納豆を発見したことを示しています。米作先進地域の食文化が、米作後進地域の東北の人々に伝えられました。
 義家伝説は糸引納豆の歴史に一つの示唆を与えてくれます。11世紀中頃の京都で糸引納豆は知られていたのに、同じころの東北地方では知られていませんでした。食文化の伝播は食品によって、また時代によって、そのスピードが違います。平安時代の日本では国中に広がるのに、100年はかからなかったでしょう。義家が東北に出兵した11世紀後期は、糸引納豆の考案からそれほど時間が経過していなかったのではないかと考えられます。

(注)歴史上、発見者と伝達者が混同される例は少なくありません。加藤清正にも朝鮮出兵中に納豆を「発見」したという伝説があります。加藤清正は日本各地も転戦していますが、彼が納豆を「発見」したのは国内ではなく、納豆のない朝鮮でのことでした。加藤清正伝説と源義家伝説は、伝説誕生の仕組みを示す好個の事例を提供しているともいえます。
(注)馬の飼料の煮豆が発酵した、馬の体温で発酵した、など馬と納豆を結びつける伝承があります。納豆と馬を結びつける伝承がなぜ生まれるのか、興味のあるところです。馬に煮豆を食べさせることはあり得なかったでしょうから、もちろん事実ではありません。なぜ、馬に煮豆を食べさせるという奇想天外な伝承が生まれるのでしょう。この問題について筆者は以下のように考えています。厩皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)の死後、太子信仰が広がります。中世から江戸時代にかけては、特に藁を原料として扱う建築職人や畳職人の間で太子講が結成されたりしました。彼らと太子が結びつくのは、厩ー藁ー聖徳太子の連想が作用したからです。この連想が、納豆聖徳太子考案伝説を生み出します。馬と納豆を結びつけた聖徳太子伝説は、他の納豆伝承にも影響していくことになりました。

(参考)秋田県仙北郡仙南村「金沢公園」内、「納豆発祥の地」の記念碑

写真は、BANANA DREAMさんの提供。
 「由来 金沢の柵を含む横手盆地一帯を戦場とした後三年の役(1083−1087)は、八幡太郎源義家と清原家衡・武衡との戦いで歴史に残る壮絶なものであった。
 この戦いの折り、農民に煮豆を俵に詰めて供出させた所、数日をへて香を放ち糸を引くようになった。
これに驚き食べてみたところ、意外においしかったので食用とした。
農民もこれを知り、自らも作り後世に伝えたという。」(句読点は筆者) 
           
糸引納豆の起源についてのまとめ

 糸引納豆は、鎌や鉄鍋など鉄製用具の普及した先進地域で、平安時代中期から後期にかけて考案された。平安時代末までには、ほぼ日本中に広まった。糸引納豆が普及するにつれ、中国伝来の麹菌納豆は塩納豆・唐納豆・寺納豆などと呼ばれるようになった。

納豆食習慣の定着状況

 納豆は日本中で食べられるようになりますが、納豆を食べる習慣には大きな地域差がありました。下の図は納豆の購入頻度を示したものです。納豆をよく食べる地域は、東北地方を中心に関東・北陸・北海道に集中しています。一方、納豆をあまり食べない地域は、紀伊半島を中心に近畿から中四国・中部地方に広がっています。最も納豆を食べる地域と最も食べない地域では、3倍程度の差があります。
 なぜこのような大きな差が生じるのかは、興味深い問題です。おそらく、複数の要因が重なっていると考えられますが、自然条件から東高西低の納豆地図を説明してみましょう。
ミカンと納豆

 平成13年度にみかんの収穫量が2万トン以上だった県は、18県ありました。
 18県のうち、愛媛(生産量1位)・和歌山(2位)、長崎(6位)、広島(7位)、福岡(8位)、愛知(9位)、三重(11位)、徳島(14位)、香川(15位)、山口(16位)、大阪(18位)の11府県は、納豆を食べない20府県と重なります。つまり、納豆を食べない地域とミカン作りの盛んな地域は、かなり重なっています。これは単なる偶然ではありません。
 納豆は今では年中食べています。ところが、納豆はもともと冬の食べ物でした。納豆は冬の季語になっています。納豆が冬の食べ物だったのは、なぜでしょう。納豆の製造工程で、発酵させた後に熟成工程があります。5度以下の温度で冷やすことにより、納豆菌の活動を停止させます。冷蔵庫のなかった時代、気温が5度以下になる地方でないと納豆作りは難しかったのです。
 ミカンの栽培には暖かい地方が適しています。特に海沿いの地域が適しているのは、冬でも最低気温が高いからです。ミカンの栽培に適している地方は、おいしい納豆作りには適していない地方ということができます。
 冷蔵庫が普及するようになって、納豆は暖かい西日本でも普及していきました。

資料:農林水産省「平成13年果樹生産出荷統計」

納豆とそば

 納豆のよく食べられている地域と、そば作りの盛んな地域は非常によく重なっています。平成12年度の日本そばの作付け面積上位20都道府県のランキングは以下のようになっています。
 
そばの作付け面積と納豆の購入頻度
そばの作付け面積ランキング 都道府県 納豆の購入頻度ランキング
北海道
11
福島
青森
長野
15
新潟
13
山形
茨城
鹿児島
23
栃木
10
福井
25
11
高知
40
12
秋田
10
13
岩手
14
宮崎
27
15
石川
20
16
熊本
12
17
広島
31
18
群馬
19
富山
20
宮城

日本そばの作付け面積上位20道県のうち、16道県は納豆購入頻度ランキング上位20位以内に入っています。
 そばが盛んに作られた地域は、米作りに適していない地域でした。米の品種改良が進んでいない時代、寒冷地での米作りには大きな困難がありました。また、水田に適さない山間畑地や火山灰土壌地域でも、しばしばそばが栽培されました。そば作りの盛んだった地域と納豆地域が重なるのには理由があります。
 現在では大豆の栽培地域は限定されていますが、輸入大豆のなかったころ大豆は重要な作物でした。特にそばの栽培地域では、大豆もよく栽培されました。水田不適地であったこともありますし、大豆の根瘤菌が土壌を豊かにしてくれることも関係していました。現在のそば作付け地域は、昔のそば・大豆地域と重なっています。つまり、現在そば作りの盛んな地域は、かつて大豆栽培の盛んな地域でした。
 大豆栽培が盛んな地域は、全国的に分布していました。大豆栽培が盛んな地域のうち、納豆製造に適した寒冷地に納豆食の習慣が浸透していきました。そばの栽培が盛んな地域と納豆の盛んな地域が重なるのは、このような事情によります。西日本で熊本県だけが特異的に納豆をよく食べる県ですが、そばの作付け面積ランキングも高い県であることに注目したいと思います。熊本県の気候は納豆作りには適していませんが、水田不適地がありそばや大豆が大量に作られていたと考えられます。
 大豆産地と納豆食地域が重なるのには、もう一つ理由があります。納豆は醤油や味噌と違い、工業的製造が発達しませんでした。長期間の保存が利かない上に季節商品であった納豆では、工業的製造が発達しなかったのです。納豆は主として家庭で作られる食品でした。工業的製造と販売がなされない食品は、郷土料理的な性格を持ちます。郷土料理はその土地その土地の産物を材料として使います。材料である大豆の産地に納豆食が浸透したのは、当然のことといえましょう。
 現在では、ご飯に納豆をかけて食べる食べ方が一般的ですが、江戸時代までは納豆汁のほうが一般的であったように思われます。寒さの中で食べる納豆汁。それは北国の人々にとって格別のごちそうだったに違いありません。納豆が寒い地方に定着したのは、納豆汁という食べ方も関係していたでしょう。
 

松尾芭蕉の俳句

 舶来の寺納豆は高貴な食べ物でした。水戸の黄門様も寺納豆を取り寄せて食しています。それに対して、糸引き納豆は庶民の食べ物でした。むしろ、貧しい山村農村の食べ物だったといってもよいでしょう。松尾芭蕉(1644〜1694)の俳句を通して、江戸時代初期の人々の納豆観を見てみることにします。
納豆切る 音しばし待て 鉢叩き
この句の解釈は必ずしも一定していないようです。
筆者はこの句を次のように解釈します。

京都の冬は身の凍える寒さである。
通りを行き交う人もなく、ただ張りつめた静かさが広がっている。
そんな夜は、人を聖なる世界へと誘うものである。
近くでは、納豆汁を作るために納豆を包丁で刻んでいる。
まな板を打つ包丁の音は、低く鈍い。
その時、遠くからかすかに鉦鼓の澄んだ高い音が聞こえた。
空也堂の鉢叩きの音である。
一瞬、聖なる世界への憧憬が心の中に広がった。
納豆切る 音しばし待て 鉢叩き
この句で、芭蕉は俗なる世界に身を置いている。
俗なる世界を象徴するものが、納豆であり納豆切りの鈍い音である。
近くの納豆切りの鈍い音と、遠くの鉢叩きの澄んだ音を対比させることで、
聖なる世界へと心ひかれる一瞬の心象風景が描写されている。


芭蕉の句をこのように解釈すると、納豆には俗を象徴する意味合いが持たされているといえます。
 なお、京都でも納豆はある程度ポピュラーな食べ物であったこと、できあがった納豆を刻んで納豆汁にしていたことがこの句から窺えます。

(注)納豆汁を作るため納豆をペースト状につぶすことを「納豆叩き」といいます。「納豆切り」は一般的に用いられない語です。「鉢叩き」の「叩き」との重なりを避けるための使用だったのでしょうか。
「鉢叩き」は、空也僧が11月13日空也忌の夜から瓢箪や鉦をたたきながら墓所をめぐる年中行事です。納豆叩きは一般に朝の仕事ですが、この句では夜です。
「しばし待て 納豆切る音 鉢叩き」でないところが、芭蕉のすごさでしょう。「しばし待て」で始めると、ふと心ひかれる心象風景が表現できません。
なお、元禄三年の「真蹟懐紙」には、「都に旅寝して鉢叩きのあわれなるつとめを夜ごとに聞き侍りて」とあり、鉢叩きに芭蕉が「あわれ」を感じていたことがわかります。

参照:芭蕉DBさん

 
「食べてはいけない陳腐な食べ物」

 納豆が庶民的な食べ物であったため、一部の人々には受け入れられないこともあったようです。芭蕉と同時代の学者貝原益軒(1630-1714)は、納豆について『大和本草』に以下のように書いています。
「俗に納豆と云、から納豆、浜名納豆あり。南都及び京都の僧尼多く之を造る。其の造法、頗る綱目の載する所に似る。○豆鼓は日本の納豆也。中華の法居家必用その他の書にも載たり。
別に一種、俗に納豆と云物あり。大豆を煮熱し、包んでかひ出、くさりてねばり出来、いとをひく。世人、これをたたき、羹と為す。多く之を食す、敗変の物、性悪し。気をふさぎ、脾胃を妨ぐ。食す可からず。凡そ、此の如き陳腐の物、食す可からず。」(句読点は筆者)

前半は唐納豆についての記述であり、由緒正しい食品との認識が示されています。後半「別に一種」以下が糸引納豆についての記述です。「世人、云々」から納豆が庶民的な食べ物であったことが窺えます。益軒によると、納豆は腐ったとんでもない食べ物で、健康にもよくないということになります。「食す可からず」を二度繰り返しているところに、納豆を毛嫌いする益軒の気持ちが表れているように思えます。
 貝原益軒は儒学者の中では自由な発想のできる人物でした。その益軒にしても、庶民の陳腐な食品である納豆に対して強い偏見があったのです。江戸時代、庶民の経験知は納豆に対する偏見をうち破っていくことになります。

参照:中村学園大学電子図書館版『大和本草』

 
健康食品としての再発見

 現今、納豆は日本を代表する健康食品として広く認知されています。納豆がおいしいだけでなく、健康に役立つ食品と認識されたはじめたのはいつ頃なのでしょうか。納豆の機能性が認知されてくる歴史を振り返ってみることにします。

 
工事中
以下工事中
納豆製法の発達

以下工事中。
 

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